21 March 2011

Menos mal..


昨夜は、神戸の被災者の女性と二人きりで夜勤。
少しだけ得意なスペイン語と、神戸での想いを共通点に、
なぜか同じ場所に転職したばかりの私達。

言葉も分からない国で、不安に怯える外国人被災者の声に夜通し対応し続ける。
”大丈夫、だいじょうぶ。私たちが一緒だよ。困ったら、ここにかければいいんだよ”
そう言うと、ホッとして、身の上話や不安な気持ちを話してくれる人も多い。

そんなこんなしていると、夜が更けていき、長い1日が終わる。
一方、ちょうど真逆の南米では、新しい1日が始まる。

鳴り止まない電話。それぞれに一筋縄ではいかない、バラエティーに富んだ内容。
地球の裏側での煽動的な報道に、日本全体が沈没しているかのような錯覚に陥り、取り乱して叫ばれる声。
現地メディアの必死の取材の嵐。
国外脱出の為のケースバイケースの細かい手続き etc. etc...

きっと無意識に、厳しい口調になってしまうのは、
それぞれに、自分の力でコントロールできない現実に怯えているからだろう。

近くて遠い、3・11から10日。
震災直後から、自らの状況をさておき、連絡を保ち続けてくれた、宮城県の職員/東北各地の避難所の方々は、今も、口々に ”毎日、ご苦労さんね” ”貴方も、大変やね”と気遣ってくれる。一番厳しい立場に置かれているはずの人たちの、思いやりに、涙が出る、ただただその力強さに励まされる。そして、東北弁の優しい口調に私の心が呼応する。”そうだ、私の故郷は、東北だったんだ”と。今までも、帰郷の度、この温もりに、何度となく癒されてきたのだと。色々と与えてくれっぱなしだった東北に、今、微力でも何かできることがあるんだろうかと。

震災の翌日の夜。
安否確認の為、宮城県のとある在日◯◯人のおじさん宅へ電話。
宮城県内に住む人のリストにある電話番号に掛けても、無反応で繋がらない状態がゆうに3時間は過ぎていた頃。

なんとなくかすかに呼び鈴が聞こえ、繋がったような感じだったので、10分くらい保留にして待つ。すると、微かにか細い声が聞こえきた。
"Hola, Holaaaa??"

私は慌てて受話器を握り直し、必死に話しかけた。
瓦礫から出てきたらしい彼は、”怖かった。1人でいつものように家にいた。数分の間に何があったのか分からない。今目が覚めた。”と言って、その電話は切れた。その後掛け直しても繋がらない電話。私たちの中で、不安が広がった。翌朝、避難所に移った彼から、”ありがとう。本当にありがとう。あの電話がなかったら、分からなかった”と伝えられた。

こんな例は、数千件の電話をして、10日目の今現在、まだこの一件しかない。
けれど、本当に少しずつでも、あきらめずに、力を合わせればできることがあるかもしれない、と思わせてくれたこのおじさんとの縁は、多分、これからも切れないんだろう。そんな気がする。


目に見えない不安が沢山ある。東京にいる私たちには、想像もつかないような不安が存在する。だから、少しでも他人の不安に気がつけたなら、少しずつでも、行動に移したい。そして怖さを抱えていても、少しでも、冷静でいたい。


避難所でトランペットを吹く女性。
神戸の経験者らが、避難所で実際にこれから必要となる物資(防犯ベル、ラップ、油性ペン、老眼鏡、大人用おむつ、歯ブラシ等)を集めて先回りして送っているという話。
無料で炊き出し、ヘアカット、避難所の解放をする無数の市民達 etc. etc..

様々なエピソードが伝えられている。
その度に、日本には、まだ周りを思い遣って、私利私欲を越えて、他人のために行動できる人が沢山いるんだという幸運を感じる。これは、この惨事の後、何百回口にしたのか分からない言葉、”menos mal" (不幸中の幸い)であるから、大切に守り、育てたい、日本の持つ底力だ。


 外国の友人からの励ましにも、助けられっぱなしである。
今の私には、この記事を英語やスペイン語で書く程の気力は残っていないけれど、
気にかけてくれる一人一人に、心から感謝している。彼らの土地で、何かが起こった時、こんなにも心に寄り添った言葉をかけてあげられるだろうか?こういう時、同じ気持ちでいてくれる友人の有り難さが身に染みる。

最後に、シドニー在住の日本人の親友(きっとこういう時、遠くから祖国のニュースを見る方が、心配が倍増したり、無気力感に陥るのでは?と思うけれど、気丈な彼女)から教えてもらった、ラモス瑠偉 のブログ記事を。私的には、トータリーアグリーでした。

http://ameblo.jp/ramos-ruy/entry-10834259061.html

明日も、それぞれにとって大事な1日となると思います。
瞑想をして、休みたいと思います。おやすみなさい。