27 July 2010

地域のマドンナ

(拠点の公民館)

今日はお母さんのお弁当配りボランティア最終日。(引越しの為)
朝から私まで緊張してしまって、ヨガも休んでしまったほどだ。(暑すぎた為)

お母さんは、今日までの十年間、ほぼ一回も休まず、毎週、地域の買い物へ出かけられない老人の方々のおうちへお弁当を配るボランティアを続けた。 雨の日も、猛暑の日も、台風の日も。

一定の時間になると、公民館に届いているお弁当をかばんに詰める。
温かいものは温かく、冷たいものは冷たく、分けて届けるよう、工夫されている。

(温かいお味噌汁の入っている可愛いオレンジの容器)



準備ができたら、よし! 自転車か徒歩で、一人平均3軒回る。

私も都合がつくときに時々、一緒に回らせてもらっていたけれど、単純そうに見えて、
結構ハードな仕事だった。まず、他人のおうちにお邪魔するのは、ハードルが高いことだ。
さらにお年寄りに信頼してもらって、お話を聞く。
”おいしくないお弁当ね”などと怒られた経験も多々。お母さん達が作っている訳じゃないけれど。

もちろんボランティアなので、報酬はほぼゼロ。
少しだけ、市から謝礼金が支払われているが、十年間で?にもならない金額。
それでも、やめられなかったのは、待っていてくれるお年寄りがいるから。
週一回でも顔を見に行くと喜んでくれる笑顔があったから。

最終日の今日。最後の訪問宅、86才のTさんのおうちで、サプライズがあった。
最後だと聞いて、感極まったおばあちゃんは、ありったけの力で、私とお母さんに自身の戦争体験を話してくれたのだ。

①関東大震災の二年後の9月1日、神戸で生まれる。
②4歳で下関港から、満州へ連れていかれる。(父は沖縄で戦い中で不在。母と産後直後の弟と)
③満州で終戦までの16年間を過ごす。ちょうど20歳の時、南満州で終戦を迎える。
④終戦後、一年間満州に残り、日本軍の書類を燃やしたり”立つ鳥後を濁さず”作業を続ける。
⑤1946年、アメリカ軍の船で日本へ帰還。
⑥焼け野原で食べ物のない埼玉の製糸場で労働時代。
⑦浦和へ引っ越してきてからの数十年の街の変遷。

涙なしには、聞けない、彼女の体験の記憶。
気がついたら、母も私も、おばあちゃんの話に引き込まれていて、炎天下で一時間はゆうに過ぎていた。特に、③の満州時代のお話は、戦争はどれだけ人を変えさせるか、貧しさはどれだけ人を狂わせるか、、おばあちゃんの目で見てきた、肌で体験してきたお話で、すさまじかった。

終戦後の食べ物がなくて大変だった時代の話は、祖父母から聞いたことがあった。
広島や長崎の悲劇のお話は、被爆者の方々から少しだけ聞いたことがあった。
たくさんの悲劇を伴う戦争体験は、多くの高齢者の方が話したがらないように感じる。
それもそのはず。話たくないに決まっている。話すのにエネルギーがいる話だし、今の若い人には分からないはず・・と心を閉ざしてしまわれることもあるだろう。

Tさんは、屈託のない笑顔の持ち主で、伺うたびに”かわいい方だなあ”と思っていた。
今日のおばあちゃんは一際、かわいかった。26歳の小娘に”かわいい”なんて言われたくないだろうが、”本当にかわいいです。”そう繰り返してしまった。一生懸命、力を振り絞りながら伝えてくれた、Tさんの笑顔、私は絶対忘れません。

Tさんは、
”国家が、政府がなくなってしまう屈辱的な体験が、忘れられない”と危機感を持って言っていた。
”戦争や災害が起こったときには、誰も守ってくれないのよ。”

おばあちゃんは、
人生の悲喜こもごもを経験した一人の人間として、力強く、私の手を握りしめながら言ってくれた。
”人生のうち4回くらいは、死にたくなるほど、辛くなる時が来ると思う。でも、ここをよく聞いて。
絶対にその時は過ぎていくの。悲しみも喜びも過ぎていく。流れていく。だから、また楽しいと思える時が来るのよ。” 

そして、自身の満州時代、生命を脅かされながら、敵に捕まったら、自害するほうがましだと短刀を隠し持ち、髪を剃り坊主にし、中国人の男性のような格好をしながら生き延びた経験を説得力にして、”自殺は、自分で生死を選択できるだけ贅沢な手段。刀や銃を突きつけられて命をとられる経験をした人は、それでも自分は助かる。自分は助かりたいと思って生きたものよ。不思議ね。食料もなくて、死んだほうが楽な状況だったのに。命さえ守れれば、また楽しい喜びの時をこうして迎えられるのよ。”と。 

隣を見ると、お母さんも号泣していた。
ボランティアとはいえ、続けてきてよかったね。お母さん。お疲れ様。
そして、10年分のご褒美をもらったね。 

No comments:

Post a Comment